女子高校生を考えてみよう!?
先日、面白い例え話を耳にしたのでこちらで紹介したいと思います。
突然ですが、クラシックとロックの共通点とはなんでしょうか。
色々ありますが、ひとつに、両者とも、歴史が経過するにつれて、表現手法として"不協和音を増やしていく"という手段を取っている事が挙げられます。
言われてみれば確かにそうです。古典派、ロマン派の時代を経て、12音技法などの無調音楽が台頭します。ロックも、無調音楽まではいかないものの、調性感がわからない音楽が台頭してきます。何故なのでしょうか。
その答えを探るのに、女子高校生を想像してみるとわかりやすい、というのです。いつの時代においても、女子高校生は校則に抗って、制服のスカートの丈を短くし、髪の毛を染めてみたりするものです。
では、何故彼女らはスカートの丈や髪の毛をアレンジすることに固執するのでしょうか。
それは、その部分しか変えようがないためです。彼女らは制服を着なければならないという「枠」の中でしか自己表現を行うことが出来ないためです。
もうおわかりでしょうか。上記の例え話がそのままクラシックとロックに当てはまるのです。クラシックもロックも、西洋音楽を祖としています。西洋音楽理論における「制服」を着ているがために、彼らは和音をいじることしか出来ない、というのです。
では、西洋音楽における「制服」はなんでしょうか。
それはずばり、12音です。我々は、1オクターブの中にある12個の音という制約の中から、様々な組み合わせを模索していっているのです。
当たり前のことですが、現在私達の間に普及している音楽は、この"12音"という限定の上に成り立っているのだ、ということを改めて感じさせてくれます。また、これも当たり前ですが、西洋ではない地域の固有音楽には、12音以上の音数があったり、逆に全く違うルールが適用された音楽があります。西洋音楽は"音楽"という大きな括りのほんの一部分でしかないのです。
限定されたからこそ生まれるもの
ここらへんの話は、TEDに登壇されていたMatthew Carter氏の話を思い出します。
英語が嫌な人はこちらで見ると良いと思います。僕も日本語字幕で視聴しました。笑
http://digitalcast.jp/v/19810/
書体デザイナーである同氏は、メイリオ、DFP痩金体など、我々もよくお世話になっているフォントを作成しています。
マシュー氏は自身を"工業デザイナー”である、と自称します。それは、制約もない自由な環境で芸術作品を作っているわけではない、という意味です。
デジタルフォントの黎明期、コンピュータ目盛りとデータ量等にまだ制約があった時代に、同氏はMicrosoftに向けてフォントを作成しました。その時を振り返り、マシュー氏は以下のように述べています。
「一番よい字」というより デザイナーの直感で 「最も悪くない」字を 決めようとしていました。これは妥協でしょうか。私はそうは思いません。その時 技術的に可能な 最高の水準に従うだけです ただ その水準が 理想とは かけ離れているだけです。
- DigitalCastより引用
制約の中でその辞典でのベストな表現をする。それが結果としてデザインに繋がる。これは一見"妥協"に見えてしまいがちですが、視点を変えてみると、一定のルールを設けることでデザインの方向性を統一する試みであった、と捉えることが出来るのではないでしょうか。
デザインの方向性を統一する試みの一つであった、西洋音楽理論。"既存の価値をぶっ壊す"という試みが方方でなされた結果、真新しいことという意味では、ほとんど開発しつくされてしまったのではないかな、と思います。そのようにしてぶっ壊されたものは、どのように再構築されるのでしょうか。はたまた、まだこのルール内から新しい価値が生まれてくるのでしょうか。
ともあれ、ぶっ壊して再構築するためには、ぶっ壊せるだけの"物"を自分が身につけていないと壊し様がありません。探求の旅はまだまだ続きそうです。